これまでの活動 2006年度・2007年度 子どもの居場所づくり・地域子ども教室 ※チラシ内の連絡先は、移転のため現在は使われていません。

【教育者の条件】【遊びながら学ぶ】学習方法
《当会の子どもへの接し方の方針についての随想》

 日常的に子どもたちが自発的に遊びとして体を動かして活動をすることで育つ力があります。 その習得するものは、意図せず意識せずにもたらされるものなので、習得した成果にすら気付かれないものです。 私達は、テストなどで点数化されて、成果の変化がすぐにわかるもので価値の有無を決めてしまいがちですが、「幸せに生きる」という最も価値のある成果につながる最上級の学習が何か?をわかっていません。わかっていたら、その学び舎でいじめや差別が年月とともにどんどんと無くなるはずです。それなのに、入学して年月が経つにつれて学校に行くのがつらくなったり、荒れてきたりしているって、一体どういうことでしょうか?

 学ぶことは楽しいこと。楽しくなければ本当の学びとなり身につかない。自分の力がついてくることはうれしいこと。 もっともっと学びたい!学校に行きたくてしようがない♪早く朝になればいいのに❤と思えている子がいますか?
 「遊びながら学ぶ学習方法を研究してるんだ」と、教育研究所に左遷(栄転の形をとった生徒と引き離す人事)された高校時代の先生の職場を訪ねた時に言われました。養老忠義先生です。「はあ?この人は何を言ってるんだ?左遷されて頭がおかしくなったの?」と思いました。私はまじめ一徹で学校に行くのは仕方ないもので、学校には辛抱していくものだと思っていました。行きたくないけど行くしかないので、朝起きるのも、学校に行く道中も、楽しみなんて感じたこともなかった気がします。おなかが痛くなったら「もう少し痛くなってくれたら休む口実にできるのに」とか、台風が来そうになったら休校になるように警報の発令を雨乞いのような気持ちで祈ったり、学校が火事になったら行かなくて済む等と恐ろしい妄想が頭をよぎったりしたものです。

 私が通った高校は、おりしも学園紛争が勃発した時期で、生徒たちを抑え込もうとする教師と、生徒の言い分にも耳を傾けようという教師の勢力が拮抗していて、教育委員会に従順な無難志向で出世したのだろうと思しき温厚な校長が絶妙なバランスをとっていたかのようでした。抑え込もうとする教師が理念や信念を語ることはなく、耳を傾けようと主張する教師は、日ごろから理想を語り生徒の心に寄り添おうとしていました。輝いた眼をまっすぐに向けて、何があっても動揺せず堂々と生きている頼もしさがありました。そんな頃に入学して間もなく、煙草を吸ったことを理由に3年生4人が退学を申し渡されました。その4人は大学紛争の影響を受けて教室にイスや机でバリケードして立てこもった厄介者だったので、言わば別件逮捕のようなやり口で懲罰となったのでしょう。当時の私には社会の情勢もわからず、わかろうともしていなかったので何をどう考えるでもなく、母に「4人の3年生が退学になる」と言いました。すると母は、詳しいこと知ろうともせず、迷うこともなく直ぐに校長に話に行くと言って出掛けました。しばらくして戻ってくると「1カ月の停学になった。1カ月うちで預かる。」と言うのです。母 嶋津安子は、私立幼稚園を自ら設立し経営する園長でした。(末尾に記載)
 翌日から4人がやってきて、幼稚園で子どもたちに「おにいちゃん!」と慕われて笑って過ごしました。子どもたちが居なくなるとごろっと横になったりしてくつろぎ、まじめに自習をしていました。まったく初めての出会いだったのに、産まれた時から可愛がられていた親戚の子どものように、いや実の娘の私以上に慣れ親しく「おばちゃん」と呼んでひがな笑顔で過ごしていました。まじめ一徹で親に甘えることもしなかった私は、体の大きな恐いことをやってのけてタバコなんかを吸う不良というイメージの先輩たちを、おそるおそる影で様子をうかがっていたのですが、実に和やかで楽しげでうらやましい光景でした。 

 母は校長先生に「退学とは何事だ!教育の放棄ではないか!教育者がやることではない!」と一喝したそうです。生徒たちがどのくらいどのような悪事を働いたか?ということは問題ではなく、「退学」ということが教育の放棄であり、それはすなわち教師の放棄であるというその一点が問題であるということです。校長はぐうの音も出ず納得し改心したようです。私は母を「なんとあっぱれな!自分にはとてもかなわない!」と、その時に心から尊敬し、今もそのことを胸に、そのようでありたいと思っています。母はあっぱれでしたが、校長先生もまたあっぱれと思います。突然闖入してきた部外者で、当時は女は男より格下という風潮でしたし、幼稚園の園長なんて高校の校長より格下と思う人がほとんどの時代です。保護者より校長が偉いとも思われていたでしょう。全てにおいて格下と思しき奴が、事情も分からないのに口をはさむな!と不快になって事がうまくいかないのが世の常です。母のプレゼンテーション力も良かったのかもしれませんが、校長先生自身の素質として人格が高かったのだと思います。校長先生のお名前は、北村篤太郎。ご両親や祖父母が「篤」を最上の価値として産み育てられたことが偲ばれます。その後北村篤太郎校長先生は、生徒たちに耳を傾け、心に寄り添おうとする教師を重用し、理不尽に押さえつけをしたい派の教師は、幅をきかさず個人的に教室内で生徒をいたぶるにとどまりました。(それでも教師による生徒へのいたぶりは続いていたのが密室の悲劇であり、自分は偉いと勘違いし続けたいサガの人が教師になりがちであることを表しています。しかし、生徒たちはそうした教師を相手にせず、むしろ生徒同士の仲間意識が醸成されたのか、校長以下誠実な教師たちの姿勢に感化されたのか、いじめのようなことはなかったと思います)
 教師と生徒たちが一体感を持って「真の教育とは?」を問い、試行錯誤する素敵な雰囲気の学校になりました。ところがそれを快く思わない働きかけが教育委員会から発せられ、最も誠実に尽力しておられた松本清先生と、養老忠義先生は直接生徒と接することができない教育研究所に移動となり、北村篤太郎校長先生は夜間高校に配置転換させられました。生徒たちは弾圧と捉え悲しみましたが、それぞれの先生はそれぞれの行先で自分の全力を注いで、真の教育の追及をし続けられました。北村校長先生は、体調が優れなかったこともあり、夜学で更に体調を崩され翌年亡くなられました。生徒たちは教育委員会に校長先生が殺されたという気持ちになった者も多く、おそらく校長で最多の生徒が自主的に葬儀に参列した前代未聞の葬儀となりました。みんな心から北村校長先生の死を悼み悲しみました。校長先生は自分たちを守ってくれたのに、自分たちは校長先生を守れなかったという悔しい気持ちがありました。
 改めてここに北村校長先生の生徒たちへの誠実さを称え、感謝し、追悼したいと思います。

 話は養老忠義先生の「遊びながら学ぶ」といういかにも不謹慎な発案に戻りますが、私は幼稚園の教員として子どもたちの生育に役立つことを教えなければ!学び取ってほしい!と思いつつも、なかなか思うようにいきません。そんな毎日の中で、ふと子どもたちが生き生きと目を輝かして夢中になっているときには、実にそのことが子どもの体中に浸透して、全身まるごとで習得していることに気が付いたのです。「遊びながら学ぶ」そうか!そういうことか!これだ!とわかりました。
 楽しくなければ十分な学びにならない、存分に楽しめたら身について離れない。夢中になる、心が奪われる、そんな方法がとれるのではないか?と追及しているうちに、暮らしに役立つこと、幸せに生きることにつながることを、子どもたちにわかるように示せたら、子どもたちは食い入るようによく見てよく聞いてよく考えて生き生きと行動し、身についていき、それはワクワク、ウキウキ心弾む楽しいもので、もっともっと!と求めてくるのでした。「静かにしなさい!」といくら喚いても、なんとか収めても、また同じ繰り返しだったことは、当然だったのだと悟りました。そうしたことがわかって、そうした日常になってくれば、子どもたちは「早く幼稚園に行きたい!」と早く起き、母親の支度をせかし、手を引っ張って、門の前に来たら親の手を振り切って、思いっきり元気な声で「おはようございます!」と駆け寄ってくるのです。

 文部科学省の学習指導要領が本当に子どもたちの気持ちに添った指針が出せているのか?と総点検したことがあります。よくよく吟味しましたが、実に順番まで見事に子どもの健全な成育を見通したものでした。
 教育の問題を語るとき、教育委員会が悪いだとか、文部科学省が間違ってるとかいった話をよく聞きますが、真摯な教育者を阻むものはめったにありません。一人一人の教師が、人として真剣に子どもたちの未来が幸せであってほしいと切望し追及し自分を磨けば、子どもや親を批判批難している場合ではないのです。そのことができないなら、無理に教師で居続ける必要はありません。しかし現実は、教師を辞めようと悩む先生より、我こそは教師と胸を張る人の方が勘違いして子どもや親を痛めているのを散見します。そういう中で、せめて目覚めている親たちは我が子だけでなくよその子にも慈愛の目を向けてあげてと祈る思いです。
 せめて発覚した教育者や児童福祉関係者の不祥事には本当に厳しくし、二度と子どもに関われないようにして戴きたいものです。

特定非営利活動法人こどもとともに交流会 理事長 嶋津 和代

   

嶋津 安子 1923年生れ
戦後、子どもを放置して働かねばならない社会状況に心を痛め、保育園を設立。その後幼稚園を併設。
子どもは親が育てることが原則であるという考えのもと、女性は子育てより託児して外で働くことが良いとする風潮に抵抗し、
また近隣に保育園ができたこともあり、保育園を廃止。親子がともに育つこと、親と教育者がともに育てることを方針とした。
「よく見て、よく聞いて、よく考えよう」というモットーを直接子どもたちに何度も説いていた。教えられた通り、
言われた通りに従順に従うことより、自分の感性で考えて判断したり行動することを求めていた。
公私の幼稚園教育費格差を是正すべきと、私学幼稚園のリーダーとなって保護者負担の軽減措置を求め国政に働きかける。
1995年阪神大震災で園舎倒壊。廃園も検討したが、数多の要望があったことと、卒業生のふるさとを無くすわけにはいかないと奮起。
「同様の地震が来ても避難所となって人々を守れる園舎を建てる」と、長い杭を打ち込み頑丈な園舎を建築して再開。
無事だったピアノ3台を総社市教育委員会に寄贈。1台を夢二郷土美術館に寄贈。その他、机・イス等を総社市・岡山市等の施設に寄贈。
2001年春 勲五等瑞宝章。私財を投じて2002年学校法人化。
こどもとともに交流会の活動資金の多くを支える

▲ページトップへ移動